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一聞百見 最後の発掘は仁徳天皇陵 関西大が考古学の原点 元宮内庁の徳田誠志さん
2023-03-12
一聞百見 最後の発掘は仁徳天皇陵 関西大が考古学の原点 元宮内庁の徳田誠志さん

「みだりに域内に立ち入らぬこと 宮内庁」。各地の天皇陵には、いかにも仰々しい高札が立っている。皇室の祖先の墓として厳重に管理された陵墓を、30年以上にわたって発掘してきたのが同庁陵墓調査官だった徳田誠志さん(60)。昨年3月末に退職し、母校の関西大学に客員教授として戻った。関大のシンボル、円形の博物館の外観は当時と変わっていない。「まさにここが考古学の原点です」と目を細めた。

宮内庁職員として最後の発掘は、令和3年11月に行われた国内最大の仁徳天皇陵古墳(堺市、墳丘長486メートル)だった。「仁徳陵に入るのはこれで最後かと寂しい思いもあった」

発掘調査は新聞やテレビで大きく報じられた。注目はやはり被葬者。果たして宮内庁のいう16代・仁徳天皇なのか否か-。報道陣からたびたび質問を浴びた。

「被葬者が『仁徳天皇以外』と特定できる墓誌などが見つからない限り、見直すことはない」と答えた。その理由として「皇室は代々、仁徳天皇の墓としてお祀(まつ)りをしている。それをお守りするのがわれわれの役目」と説明。一方で、「古墳という文化財としての価値を否定しているものではない」と強調した。

発掘は、墳丘を囲む2重の堤のうち内側の「第1堤」(幅30~35メートル)で行われ、円筒埴輪(はにわ)が出土。堤の縁を2列にびっしりとめぐっていることが初めて確認され、古墳の壮大さを裏付けた。「研究者として、最も大きな前方後円墳の調査に携わったのは幸せだし、やりがいもあった」

天皇陵を含む陵墓は、昭和22年施行の皇室典範で規定されている。「天皇、皇后、太皇太后及び皇太后を葬る所を『陵』、その他の皇族を葬る所を『墓(ぼ)』」とし、皇室が祭祀(さいし)を行っている。陵墓のほか、被葬者が定まっていない陵墓参考地もあり、1都2府30県に計899基ある。

「御陵を管理する責任は大きい。無事にバトンを引き継ぎ、ホッとした気持ちもある」と振り返る。

同庁に入ったのは平成2年4月。この年の11月に天皇陛下(現上皇さま)の「即位礼正殿の儀」が営まれ、退職する2年半前の令和元年10月には天皇陛下の「即位礼正殿の儀」。いずれも職員として儀式に携わった。「時代の大きな転換点が、私の人生と重なった思いです」

同庁に就職して最初に入ったのは、履中(りちゅう)天皇陵古墳(堺市)。仁徳天皇陵古墳のすぐ南にあり、墳丘長365メートルで国内3番目の大きさだ。

水をたたえた周濠(しゅうごう)は幅50メートル以上あり、小さなボートで墳丘に渡った。その間、5分ほど。「実は興奮したことしか覚えていないんです」。墳丘にも上ったが、「どこをどう歩いたか…」。

ただ、ボートから前方部側の堤に設けられた鳥居のある拝所(はいしょ)の印象が、強く残っている。「これが拝所の裏側か」。一般の人は、絶対見ることができない光景だった。

◆浸食進む天皇陵のなかの天皇陵

天皇陵の中の天皇陵ともいわれるのが、国内最大規模を誇る世界遺産、仁徳天皇陵古墳(堺市、墳丘長486メートル)。平成30年、初めて本格的な発掘のメスが入った。研究者らから「なぜいきなり掘るのか」との声も上がった。しかし実態は、上空からの写真で見る優美な姿とは裏腹に、墳丘の崩壊が進んでいた。「今、誰かが手をつけないといけなかった」。当時、宮内庁陵墓調査官だった徳田誠志・関西大客員教授は語る。

「仁徳陵は、周濠(しゅうごう)も深くて水が多く、浸食が進んでいる。まず保全を考えないといけない」。同年11月、堺市と初の共同発掘をした際の記者会見では、陵墓調査官として調査に着手した理由を説明した。

発掘に先立つ同7~10年には、墳丘に入って状況を調査。いたるところで土が崩れ、後円部と前方部の縁辺部が周濠に向かって崖のように落ち込んでいるのを目の当たりにした。周濠の水によって10メートル前後が浸食されたとみられている。墳丘全体も、測量図でみると等高線が大きく乱れ、崩壊していることが一目で分かる。

「1600年前の築造時の姿がどこまで残っているか、どういう状況かも分からない。これではいかんだろうと思った」という。「巨大なだけに容易に手をつけられない難しさもあったが、誰かが始めないといけなかった」

30年の発掘は、墳丘を囲む2重の堤のうち内側の「第1堤」(幅30~35メートル)で実施。築造当時の円筒埴輪(はにわ)列や石敷きが見つかり、後世に開発など人の手がほとんど入っていないことも分かった。地元では「仁徳さん」「御陵さん」と親しまれる古墳。「地域で大切に守られてきたことを実感した」。記者会見ではこう述べ、将来に受け継ぐ責務を改めてかみしめた。

古墳のすぐ西側には上町断層が延び、墳丘の崩壊は大規模な地震による地滑りが原因とされる。「地震は過去のことではない。万々が一という危機管理の観点からも、調査は必要だった」と話す。得られたデータを基に、具体的な対処方法が検討できるためだ。

「状況を聞かれたとき、しっかり説明できるようにしないといけない。考古学者としてこの中を誰よりも歩いたと思う」

発掘後、地元では講演会をはじめ調査現場の写真や出土した円筒埴輪も展示された。「情報公開を通じて陵墓に目を向けてもらいたかった」と話す。

満身創痍(そうい)ともいえる仁徳天皇陵古墳をいかに後世に守り伝えるか-。今後は墳丘縁辺部も含めて発掘する予定で、その後の整備も含めると、数十年単位ともいわれる巨大プロジェクトになる。

「私の世代で終わるとは思わなかったし、終える必要もない。次の世代に引き継ぐことが大切。その一歩は確かに踏み出せたと思う」

歴史遺産を未来に残すための果敢な挑戦。自身の手は離れたが、今後も行方を見守り続ける。

◆インド・祇園精舎発掘で視野広げ

昨年4月、約30年ぶりに戻ってきた関西大学。かつて、橿原考古学研究所(奈良県橿原市)を設立した末永雅雄さん、飛鳥美人壁画が描かれた高松塚古墳(同県明日香村)を発掘した網干善教(あぼし・よしのり)さんらが教鞭(きょうべん)をとり、考古学の名門として知られる。宮内庁での陵墓発掘の経験を踏まえ、徳田誠志さんは客員教授として後進を育てる。

高松塚古墳が発掘されたのは昭和47年。1300年前の極彩色壁画は空前の考古学フィーバーを巻き起こした。当時はまだ10歳。「記念切手を買いに行ったのを覚えています」

出身は岐阜県。考古学の最前線で勉強したいと、関大の門をたたいた。キャンパス内にある円形の大学博物館は当時「考古学等資料館」と呼ばれた。1階に研究室があり、講義がないときはほとんど詰めていたという。「2階が網干先生の研究室で、用事があれば電話で呼び出された。『ちょっと上がってきて』という具合に」と懐かしむ。

「君、インドに行くか」。ネパール国境近くにある仏教の聖地・祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)跡の発掘のときもそうだった。大学院生のとき、2階から電話がかかってきた。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…。平家物語でなじみ深いインド北部の祇園精舎は、釈迦が長年にわたって説法をした地。関大創立(1886年)100周年記念事業として、インド政府と共同で1986(昭和61)年~89(平成元)年に調査が行われた。

乾期にあたる10月~翌年3月に実施。寒暖差が激しく、朝は気温5度前後、昼は40度にもなった。「朝はダウンを着て、日が高くなるにつれて上着を脱ぎ、昼はTシャツ一枚。日が傾きだすとセーターやダウンを着こむ。一日で日本の四季を体験しているようでした」

発掘ではレンガ積みの階段や壁が姿を現した。身を清める沐浴(もくよく)池。「全く未知のものに触るという楽しさがあった」と振り返る。

共同調査であっても、出土品の国外持ち出しは固く禁じられた。仏像などの実測は、早朝や夜に現地で行うしかなかった。ともに調査をした米田文孝・関大教授(69)は「インドは英国の支配下にあった時代に貴重な文化財が持ち出され、その苦い過去があったため」と話す。調査を通じ、文化財保護の重要性も肌で知った。

祇園精舎跡の発掘終了翌年の平成2年、徳田さんは宮内庁へ。網干さんは同庁の陵墓管理委員を務めており、つながりはより深まった。

18年6月、同庁での陵墓管理委員会を前に、網干さんから1本の電話があった。「体調が悪いから出席できない。ごめんな」。徳田さんにとって、これが最後の言葉になった。その翌月、78歳で亡くなった。

「大学に戻って円形の博物館を見ると、網干先生がおられるように感じます」。博物館の前には、網干さんが発掘した高松塚古墳壁画を忠実に再現した陶板のレプリカが展示されている。

高松塚古墳、祇園精舎跡、網干さん…。現在の学生にとって遠い存在になったかもしれないが、恩師の教えを胸に歴史を学ぶことの意味を伝えている。(聞き手 地方部編集委員、小畑三秋)

■とくだ・まさし 昭和37年、岐阜県生まれ。関西大大学院博士課程後期課程修了。平成2年に宮内庁書陵部陵墓課に入り、陵墓の調査研究、管理業務などにあたった。令和4年3月に退職し、4月から関西大客員教授。関西大の学生だった昭和57年には、奈良県明日香村のキトラ古墳を測量調査。翌年に石室内のファイバースコープ調査で四神の一つ「玄武」の壁画が発見された。「まさか足元に壁画があったとは」と振り返る。

ソース元URL:https://news.yahoo.co.jp/articles/5b80005942e3e13d95a4036abe3b8fd9adea8868

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